はじめに 数学的定理は強力だ。疑いようのない正しさ、再現性、そして圧縮された明快さを持つ。しかし、その強さゆえに、定理はしばしば 本来の役割を超えて期待されてしまう 。 本稿で主張したいのは単純である。 閉じた定理は、装置を作るための言語であって、世界そのものを理解するための主語ではない。 これは反数学の立場ではない。むしろ、数学を正しく使うための位置づけの問題である。 定理とは何をしているのか 定理とは、 公理や定義を固定し 適用範囲を限定し その内部で必然的に成立する関係 を示すものである。 ここで保証されているのは「世界の真理」ではなく、 ある前提のもとでの整合性 だ。 定理は、世界をそのまま記述するものではない。世界の一部を切り出し、 操作可能な形に閉じる ことで初めて機能する。 なぜ定理は「装置」と相性がいいのか 装置とは本質的に、次の性質を持つ。 入力と出力が定義されている 想定外はエラーとして扱われる 動作条件が仕様として固定されている これは定理の性質とよく一致している。 前提が明示され 範囲が限定され 外部要因が排除される つまり定理は、 世界を装置として扱うための言語 なのである。 工学、計算、最適化、実装。 これらの領域で定理が強力なのは、世界を一時的に「装置化」することが許されているからだ。 問題はどこで起きるのか 違和感が生じるのは、定理が次の役割を担わされるときである。 社会の理解 人間の認知 文化や意味の生成 未来の可能性 これらは装置ではない。 前提は常に変動し 観測者自身が内部に含まれ 意味が循環し続ける こうした領域に、閉じた定理をそのまま主語として持ち込むと、 理解は深まるどころか、切り落とされる 。 定理が生む「安心感」の罠 定理は強い安心感を与える。 これ以上疑わなくてよい 正しさは保証されている 議論は終わった しかしこの安心感は、しばしば 問いを止める力 として作用する。 本来、定理は 「ここまでは言える」 という境界を示すものだ。 それがいつの間にか 「これが世界だ」 にすり替わると、思考は停止する。 世界理解に必要なのは何か 世界を理解するとは、 何が前提として置かれているのか なぜその...